MLB・エンゼルスで「二刀流」として、絶賛大活躍中の大谷翔平選手。
実は、大谷選手のお父さんも、学生時代は野球部に所属し、実業団でのプレー経験があるのはご存じでしたか?
大谷翔平選手が幼少期の頃には、野球監督として自分の経験を、熱烈に注ぎ込まれたようです。
勤務先も、「三菱重工」「トヨタ自動車」と超大手企業ばかりのようで…?!
本記事では、大谷選手の父親「徹さん」にフォーカスしまとめてみました。
目次
【顔画像】大谷翔平の父親:徹の職業・身長・年齢まとめ。基本プロフィール情報
こちらの写真の方が、父親:大谷徹さん。
一緒に写っているお子さんは、もちろん、幼少期の大谷翔平選手です。
大谷選手のお父さんも学生時代は野球選手だったみたいだよっ!
まず、父親:徹さんの基本プロフィール情報を中心に見ていきましょう。
大谷翔平の父親・徹さんの基本プロフィール情報
- 名前:大谷徹(とおる)
- 生年月日:1962年 ※生年月日は不明
- 年齢:59歳
- 出身地:岩手県上北市和賀町(わがちょう)
- 身長:182cm
- 学歴:岩手県立黒沢尻工業高校
- 職歴:三菱重工横浜の関連企業
- スポーツ:野球
- 温泉好き
- 家族情報
- 父親の名:正幸(大谷翔平の祖父)
- 2人兄妹の長男
東北・岩手県の南西部で生まれ育つ。交通の便に優れた工業団地。
大谷選手の父:徹さんが生まれ育った場所は、東北地方の岩手県上北市和賀町。
岩手県の南西部に位置しています。
子供の頃の町の印象を聞くと、
当時は人もたくさんいて、町全体が活気にあふれていた。まさに工場の町といった感じでした。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158502
どうやら、徹さんが幼少期の頃から、住宅地というよりも、工業団地寄りの町のようですね。
「東北新幹線」「東北自動車道」「秋田自動車道」が開通したことにより、流通の便も非常に良く、これまでに180社を超える企業の誘致に成功しています。
「岩手県企業立地ガイド」にも、町の特徴として「交通の便に恵まれた工業団地」が挙げられてたよ!
後ほど詳しく解説しますが、
徹さんは、学生時代まで地元・岩手県で生活されており、高校卒業後の三菱重工横浜への就職を機に、故郷を離れ、神奈川県に移り住まれます。
現在は、故郷の岩手県に戻ってこられて、妻の加代子さんと一緒に生活されてるみたいだよ!
1962年生まれで、妻:加代子さんの1歳年上になられます。
2021年現在で、59歳になられました。
【顔画像】 大谷翔平の父親:徹は元野球選手!強豪校に所属し実業団でもプレー。
大谷選手の父親:徹さんも、学生時代から社会人まで、野球に取り組まれていました。
徹さんも当時は、プロ野球選手を目指していたんだって!
父・徹さんの、プレーヤーとしての野球人生を振り返っていきましょう。
中学時代:坊主が嫌で「野球部」ではなく「陸上部」に入部
野球を始めたきっかけは、徹さんの父親:正幸さんの助言。
(正幸さんは、大谷選手の「おじいちゃん」ですね)
徹さんは、小さい頃から野球をやる機会はあったようで、
おじいさんの正幸さんはこのようなコメントを残されています。
徹は、ワシが務めてた自社工場のレクリエーションでも野球をやっておったんじゃよ。今となっては、懐かしいのう。。
徹さんが本格的に野球を初めたのは、中学生になってからですが、入学当初は野球部ではなかったようです。
野球部に入部しなかった理由は、、
坊主頭にするのが、どうしても嫌で、、(笑)。
結局、最初は陸上部に入部しました。
意外な理由ですが、分からなくもないような。(笑)
高校野球でおなじみとなっている坊主頭について、ハフポスト日本版は甲子園出場校を対象に調査を実施した。野球部の髪型が「坊主」と回答したのは43校で、全体の87%に上った。
その中で、ほとんどの高校が髪型を自由としているが、選手が自主的に坊主にしていると説明。「伝統」や「慣習」などが理由だという。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d4676a2e4b0acb57fcda26a
確かに、野球部=坊主は、大多数の人が抱いてるイメージなのは間違いないですね。
当初、陸上部に入部した徹さんでしたが、高い身体能力を発揮し、結果はしっかりと残されていたようです。
100メートル走・走り高跳び・砲丸投げといった、所謂、「陸上の3種競技」で県大会6位の成績を収めました。
只、個人的には入賞した喜びよりも、「自分の上に5人いる」という事実の方が悔しくてしょうがなかったのを覚えています。
かなりの負けず嫌いだったようですね。(笑)
そして、中学2年の際に、野球部へ転部します。
当時の野球部はさほど強くなかったものの、野球は陸上ほど明確に個人の優劣がつくわけではない。しかし、個人の活躍がときに勝敗を左右する。徹はエース兼4番打者として、県内の野球強豪校監督の目に留まる存在になった。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158502/2
大谷選手のパパも、「二刀流」だったんだね!
元々も持ってるポテンシャルも高かったんだろうね…。
しかも、徹さんを注目した監督さんは、当時甲子園に出場するほどの強豪校だったんだって。。凄いね!
ラブコール受け強豪校へ入学するも「挫折」そして「燃え尽き症候群」
高校進学の進路として、野球メインで考えていた徹さんは、私学の名門校も選択肢にあったそう。
しかし、ある強豪校の監督が、徹さんに対して直接ラブコールを送り、心境が変化します。
その強豪校の名は、「岩手県立黒沢尻工業高等学校」。
地元・北上市内の県立黒沢尻工業が通算2回目の甲子園に出場した。2回戦で鹿児島商工を下して3回戦に進出。翌年の春の選抜にも出場した。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158502/3
黒沢尻工業高校は、徹さんの入学前から「既に甲子園出場経験もあった」県内屈指の強豪校のようですね。
中学時代の徹さんの活躍は、黒沢尻工業野球部の監督も注目されていたようで、
甲子園を目指すならウチに来なきゃダメだ。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158502/3
徹さんは、野球部監督の熱い言葉に説得力を感じ、黒沢尻工業への進学を決意されます。
「強豪校」で甲子園を目指す。
”より厳しい環境下に身を置くことで、自身のレベルアップを図りたい。”
徹さんの中で、そのような熱い決心があったのかもしれません。
そんな高い志を持って、名門校の野球部での挑戦が始まります。
しかし、黒沢尻工業での野球経験は、想像以上のたくさんの試練が待ち受けていました。
黒沢尻工業は当時、野球強豪校。中学時代はエースで4番、腕に覚えのある連中が集まってくる。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158502/3
徹さんは、中学時代「エース・4番」とまさに”二刀流”で、チーム内での絶対的エースでした。もちろんその経験からくる自信もあったでしょう。
しかし、強豪・黒沢尻工業では、実力的に徹さんと同等、もしくはそれ以上の選手の集まりだったのです。
元々のポジションだったピッチャーも、強豪校では通用しなかったようで、、
ピッチャーは1年生のときにダメだと。クビですね(笑い)。内野もちょこっとやらせてもらいましたけど、すぐに外野手になりました。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158502/3
徹さんは、戦えるポジションを色々と模索した結果、最終的に外野手でレギュラーを獲得しました。
打順も4番ではなく、1・3・5番のいずれかだったようです。
相当な負けず嫌いの徹さんの事だから、かなり悔しかったんだろうね…。
ただ腐らずに、継続して努力した結果として、レギュラーを掴んだのは流石だね!
高校時代:厳しい現実に直面した後に待っていた「燃え尽き症候群」
強豪校で、野球漬けの日々を送った黒沢尻工業高校時代。
チームとして、念願の甲子園出場は果たせたのでしょうか?
- 1年時:予選決勝で敗退
- 2年時:予選初戦敗退
- 3年時:予選初戦敗退
結局、念願の「甲子園出場」は、在学中には叶いませんでした。
真剣に3年間、野球に向き合い打ち込んできたからこそ、ラストチャンスである3年夏の地区予選で敗退が決まった際の精神的ダメージは相当大きかったようで、、
徹さんは、「野球」自体が嫌になり、距離を置きたくなった程だという。
俗に言う、「燃え尽き症候群」ね。立ち直れたのか心配だわ。。
「燃え尽き症候群」とは
スポーツ選手の心の問題のひとつとして、多くの方がご存知であろう「バーンアウト(燃え尽き症候群)」についてお話ししたいと思います。
バーンアウト(燃え尽き症候群)とは、長い時間目標を達成するために努力しても、それが十分に結果が出なかった時に生じる情緒的(喜びや怒り、悲しみなどの複雑な感情の動き)・身体的な消耗状態を表す言葉です。
パシフィックバスケットボールアソシエーション より引用
これはスポーツ選手以外でもありえるもので、よりスポーツ選手が身近な言葉で表すと「スポーツ活動や競技に対するやる気を失い、燃え尽きたように体力と気力を使い果たし疲れ果てた状態」のことを言います。
徹さんは、高校卒業後の進路として、一般企業に就職し「社会人野球チーム」でプロを目指すつもりでいました。
当時、黒沢尻工業OBの多くが、実業団チームに所属されており、
黒沢尻工業高校の先輩も、社会人になっても、野球を続ける人が大半だったみたいだねっ!
その内の1人の先輩OBが千葉県の製鉄会社に勤務しており、そのツテもあって、徹さんもその会社に就職し野球を続ける予定でした。
その会社から内定も貰っていたそうですが、「燃え尽き症候群」から立ち直れない徹さんは、その内定を断ってしまいます。。
内定まで断っちゃうなんて…
精神的に相当のダメージを負っていたようね。。
当時の徹さんは、中学時代の陸上部で味わった敗北感と似たような感覚に襲われたらしいよ…。「僅差の惜敗だったとしても、負けは負け。」って。
元々の負けず嫌いな性格と、情熱をたくさん注いだ分、想像以上の反動だったみたいだね。。。
このまま野球を諦める…。
周囲もそのように感じ始めていた矢先、、
徹さんの心境に変化が訪れます。
10月とか11月になると、また、野球をやりたくなってしまったんですよ、これが(笑い)。もう一度、やりたくなって、監督に『実は……』と切り出したんですけど、おまえ、断ったじゃないかという話になって。。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158534/2
やはり、心の底から野球を嫌いにはなれなかったようですね。(笑)
監督や先輩OBの協力もあり、同年11月に三菱重工横浜・野球部のセレクション受け、無事に内定を勝ち取りました。
三菱重工横浜にはすでに、高校生3人の入社が内定していた。そのうち2人は後にプロ入りする。ひとりは83年のドラフト3位で阪急(現オリックス)に入団した飯塚富司。もうひとりは85年のドラフト2位で阪神に入団した中野佐資。中野は阪神時代、和田豊(現阪神監督)、大野久とともに、村山実監督から「少年隊」と呼ばれた選手だ。「僕は高校生で4人目。時期も時期でしたし、取っていただいたという感じ」と徹は話す。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158534/2
結果的に、野球を続けることが出来てよかったねっ!!
野球を続けることが出来たのも良かったんだけど、
三菱重工横浜に行ってなければ、大谷翔平選手も誕生してなかったんだよ!
故郷を離れ三菱重工横浜野球部へ入団。そして「妻・加代子」と出会う。
紆余曲折を経て、三菱重工横浜・野球部への入団が決まった徹さん。
生まれ育った岩手県を離れ、1人神奈川県へ移り住みます。
慣れ親しんだ岩手県を離れてでも、野球を続けたかったんだろうね!
当時、三菱重工横浜の野球部はレベルが高く、チームとして神奈川県全体の第3代表を争う程だったそうです。
二刀流の血脈 大谷の父・徹(52)が在籍していたころの三菱重工横浜野球部は、都市対抗野球の神奈川代表のイスを争っていた。
神奈川から3チームが代表になり、その3番目の枠をかけて戦うというレベル。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158725
練習スケジュールとしては、午前中はサラリーマンとして仕事こなし、午後からガッツリ野球漬けといった毎日を送っていたそう。
徹さんは、社会人1年目に「肩を負傷」するも、回復後はしっかりとトレーニングに取り組み、やがて高校時代と同様に、外野手でレギュラーの座を掴みます。
そして、徹さんが社会人2年目を迎えた頃、後に妻となる加代子さんが、三菱重工横浜に入社。
2人は社内の飲み会で出会い、意気投合し、お付き合いに発展したそうです。
新入社員の男子は応援部、女子はチアガールのようなものをやるのが義務付けられていたのです。で、結団式というか、集まりの中で知り合いました。応援される方と応援する方で。結団式とか壮行会とか、酒の席があったりして、そこで、です。当時、僕は入社2年目でした。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158619/2
当時の三菱重工横浜は、野球部の応援に、社を挙げて取り組んでおり、結果的に野球絡みで出会うことになったようですね。
↑↑↑↑↑↑↑↑
妻:加代子さんに関しては、上記の記事で詳しく解説しておりますので併せてご覧下さい!
監督からの突然の「戦力外通告」。しかし思わね「裏話」がそこにはあった!
三菱重工横浜の野球部には、大谷の父・徹(52)も含めて高校出の同期が4人いた。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158689
高校出身の同期4人の内、2人「飯塚富司(画像左)」と「中野佐資(画像右)」は、プロ入りの夢を叶えます。
(※徹さんを除いたもう1名の方は、入社5年目で退部されております。)
結果的に、同期で野球部に残ったのは、徹さん1人になります。
徹さんもプロになる夢を追って、社会人野球を続けていた為、
同期の2人がプロになったことで、元々負けず嫌いの徹さんが意識しないわけはないですね。
強い刺激を受け、社会人6年目を迎えた徹さんは、当時付き合っていた加代子さんに、ある決意を伝えたそうです。
オレさ、今度の冬練習では、自分が若手のリーダーとしてやっていくつもりなんだ
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158689/3
しかし、この直後に、徹さんの野球人生を揺るがす出来事が起こります。
野球部の臼井喜久男監督から呼び出されたのは、そんな矢先だった。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158725
そして、臼井監督からまさかの一言が、、
来季は戦力として使うつもりはない。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158725
事実上の「戦力外通告」。
その際に、臼井監督から色々と説明を受けたようですが、要するに「世代交代を含めて、チームの若返りを図る為。」だったんだとか…。
「若手を引っ張っていくリーダ的存在になりたい…。」その決意を胸に、改めてプロを目指そうとしていた矢先にこのシチュエーションは、残酷すぎますよね。。。
世代交代といっても、徹さん自身も当時24歳。
まだ若く、血の気が多かった徹さんは、絶望を通り越して怒りがこみ上げてきてしまい、、
「売り言葉に買い言葉」とは、まさにこのこと。
徹さんは、突然の戦力外通告を受け入れたのです。
当時の心境を、徹さんはこのように語られています。
まさか自分が……という気持ちは正直、ありました。使わないと言われ、そこで、いや、やらせてくださいと言えばよかったのかもしれませんけど……自分は……言えなかったですね。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158725/3
確かに、意地っ張りな面もあったかもしれませんが、
男の心境としては、素直になれず意地を張ってしまう気持ちも分かる気が。(笑)
徹さんの野球人生は、こうして思わぬ形で幕を下ろす事になりました。
大谷の父・徹(52)は24歳の夏、三菱重工横浜の野球部を引退
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158805
しかし、、
この話は後日談と言いますか、予想外のオチがあったようで、、(笑)
妻:加代子さんが、当時勤めていた部署には、野球部の臼井監督も在籍されていました。
(加代子さんの所属先は、勤労部安全衛生・安全保安課でした)
「うちの部署の部長が野球部長で、監督も勤労部にいたんです。で、直接、聞いたわけではないんですけど、先輩たちの話では、監督は選手の士気を鼓舞する、やる気を出させるつもりで、おまえなんかもう、使わないぞと言ったようなんです。意気に感じて、もう一度、頑張りたいです、と言えば、よし、頑張れと絶対に言うぞと。監督はそういうつもりで言ったようですし、実際、そうだったみたいなんです」
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158725/2
表向きは「戦力外通告」でしたが、実際の中身は「やる気を鼓舞するカンフル剤」だったというオチだったんですね。
そんな、カンフル剤が無くても、徹さんのモチベーションは十分に高まっていたのに…。
徹さんの心の奥底にある「秘めたる闘志」までは、臼井監督も気付けなかったようですね。
ちなみに「戦力外通告」の件は、加代子さんにも事後報告という形で、相談したみたいです。
当時(大谷の母・加代子とは)付き合っていたので、相談もしたんですけど……。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158763
わたしに電話をしてきたときは、もう、辞めると言ったと。結構、短気なんですよね(笑い)。じゃ、わかった、使う気がないなら、おれはもう辞めるという感じで、たぶん答えたんですよ。そんなんでホントに辞めちゃっていいの? 後で後悔するよ、と散々、言ったんですけど、使わない、って言うんだからと。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158763
加代子さんに相談した時には、既に「戦力外通告」を受け入れた状態だったようですね。
ただ、徹さんが「野球を諦めた」のは、「戦力外通告を受諾した後で、今更覆せない」という気持ちもあったかもしれませんが、同年の12月に加代子さんとの結婚を控えていたのも、引退を決断する1つのきっかけだったのかもしれません。
野球以外にも「大切な守るもの」が出来たことで、野球を諦めて仕事に専念しようと、徹さんは決意したのかもしれないね。
大谷翔平の父親:徹の職業は三菱重工横浜とトヨタ自動車に勤務
次は、徹さんのお仕事を中心に解説していくよっ!
- 三菱重工横浜
- トヨタ自動車東日本
高校卒業後は「野球部」のある三菱重工横浜のグループ企業に就職
徹さんは、高校卒業と同時に野球を続ける為に、三菱重工横浜野球部に入団されましたが、就職に関して言えば、正確には三菱重工横浜の「グループ企業」に就職されております。
徹の勤務先は、厳密に言えば三菱重工横浜のグループ企業だった。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158619/3
野球目的で入社した人員に関して、勤務先はグループ会社がほとんどでした。
仕事は午前中の3、4時間くらい。ワープロを打ったり、コピーを取ったりでした。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158763
野球部所属時代は、もちろん野球メインだった為、業務時間は午前中のみだったようです。
ちなみに、その当時の配属先は総務部です。
野球部引退後もSE(システムエンジニア)として4年間在籍された
でも、徹さんは24歳の若さで、野球部を退部したよね?
退部後の仕事内容に関しては、どうだったんだろう?
野球部にいたときは勤務も午前中だけ。ワープロ打ちとコピー取りといった仕事が主だったものの、引退後はそうはいかない。当時はコンピューターが普及し始めたころ。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158805
引退後は、正社員として午前・午後フルで労働されているのはもちろんですが、業務内容に関しても大幅に変わったようですね。
コンピューター関係の勉強をしなさいよと。プログラム言語を覚えて、自分でプログラムをつくれるようにと。システム関係の仕事でした。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158805
コンピューターの普及もあって、SE(システムエンジニア)のような仕事を任されるようになったみたいですね。
配属先に関しても、総務場からシステム関連の部署へ異動し、日常業務をこなしながら、経験・知識ともに不足していた為、コンピューターの勉強を同時並行で行ったそうです。
野球部を辞めた後も、色々と苦労されたんだね。。
ところで、徹さんって長男で地元は岩手県だよね?
故郷に帰ろうとは思わなかったのかな?
そう、徹さんは、三菱重工横浜野球部に入団される前は、ずっと岩手県で生活されていました。
大好きな故郷を離れてまで、横浜に引っ越したのは、野球の為でしたね。
横浜にはそもそも野球をやるために来た。野球部引退後も居続けなければならない理由はない。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158805/2
時間の経過と共に、故郷・岩手県への思いは、増していったようですね。
そうして徹さんは、野球部を引退して4年後の、28歳のタイミングで、三菱重工横浜のグループ企業を退職され、岩手県に自社工場を持つ会社へ転職を果たします。
故郷・岩手県への引っ越しを見据えて、自動車ボディメーカーに転職
大谷の父・徹(52)の新たな職場は自動車のボディーメーカー。車体を造る過程のラインに携わる仕事だ。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158843
この自動車ボディメーカーの当時の社名が、「関東自動車工業㈱」。
2012年に「トヨタ自動車東日本㈱」に社名変更されています。
転職先の会社では、特に問題なく勤められたのかな?
故郷の岩手県に帰れたのかも気になるねっ!
実は、「転職に伴い岩手県に引っ越しした」というわけではありません。
というのも、この転職先の会社を見つけてくれたのは、妻である加代子さんのお母さんだったんですが、
自動車メーカーが岩手に工場を造るので、大々的に従業員を募集するというのを、私の母が見つけてきたのです。大きな工場ができると。何年後かには岩手に移るというので、ここに入れば岩手工場に行けると。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158805/3
将来的に「岩手県に移り住む」前提で選んだ転職先と言うことだったんですね。
転職直後の徹さん夫婦の住まいは、加代子さんの実家から徒歩2,3分の距離にある横浜市旭区の3DKのアパートでした。
「岩手に行くのが前提でしたし、小さい龍太がいて、次の子も……なんて考えると、少しでも実家に近い方がいいと。お父さんは大変だったと思いますけど……」
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158843
元々、「横浜生まれ・横浜育ち」の加代子さんを、「岩手県に移り住もう」と説得したのは、徹さんでした。
岩手に移り住むまでは、少しでも加代子さんの育児の負担を減らそうと、徹さんななりの気遣いがあったのかもしれませんね。
加代子さんのご両親の協力で、子供の面倒を見て貰えたみたいだし、加代子さん自身も将来の為に、コツコツとアルバイトされて家計を支えたそうよ。
往復3時間の通勤 + 昼夜完全2交代制・残業は当たり前でハードな日々。
一方で、徹さんの勤務先工場は、横浜市の追浜でした。
当時は電車の便が悪かったのか、片道1時間半の距離を市営バスに乗り通勤されたそうです。
往復にすると約3時間と、毎日の通勤としては結構な負担ですね。
トヨタ自動車工場での勤務内容も、けっこうハードだったみたいだよ…。
- 車体を造る過程のラインに携わる仕事
- 残業付きの昼夜完全2交代制
- 昼は午前8時から午後5時。
- 夜は午後9時から翌朝の午前6時まで。
- そこから残業が1時間ないし2時間がほぼ毎回
工場勤務ということで、生産効率を上げる為にも2交代制だったようですね。
生活リズムを調節するのが難しいですし、日中勤務の際は、6時前にはアパートを出ないと間に合わなかったようです。
しかも、残業はもれなくほぼ毎回あるのが通常だったようです。
これは、中々キツそうです、、、
転職先での、当時の心境を徹さんに聞くと、
かなり、つらかったですね。新しい仕事で分からないことも多かったですし。ただ、若かったですし、こっち(岩手)に戻れるというのがありましたから。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158805
愛する家族の為、そして、自身の念願の「故郷・岩手に戻りたい。。」これらの思いを達成する為に、慣れない仕事でも懸命に取り組まれたようですね。
結果的に、転職して4年が経過した頃に、大谷一家はついに「岩手県奥州市水沢」に引っ越すことが決まります。
この引っ越しの1年前に、長女である結香さんが誕生されており、当時は家族4人。
そして、日本球界のスーパースターとなる、大谷翔平選手が誕生されるのは、岩手県の引っ越しをした次の年でした。
加代子さん・兄の龍太さん・姉の結香さんは、横浜生まれで、
徹さんと大谷選手は、岩手県出身なんだね!
一家4人で岩手に来た当時、結香は1歳になる前、龍太は5歳、幼稚園の年長組だった。大谷が生まれるのは引っ越しの翌年だ。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158843/3
大谷翔平の父親・徹は野球監督!自らの経験を翔平に叩き込んだ「父の教え」
野球選手のみならず、野球指導者としての経歴もあるみたいだよっ!
徹さんは、大谷選手の野球ルーツにも深く関わりがあるようですね。
詳しく見ていきましょう。
長男に対する後悔。自分が教えられることを「大谷選手」へ伝えたい。
徹さんは、長男・龍太さんに関して、後悔していたことがあるそうなんだ…。
長男・龍太さんが小学生になった際に、龍太さん・本人から「野球をやりたい。」と伝えられたそうですが、
当時の徹さんは、岩手に引っ越した直後で、トヨタ自動車の岩手新工場の立ち上げに関わっており、龍太さんに時間を割くことが出来ず、野球を教えることが出来なかったそうなんです。
上の息子(兄・龍太)には何もしてやれませんでした。だからこそ……
下の子(翔平)には仕事を少しくらい犠牲にしても、気合を入れてやってやろうというのがあったんです。わたしがやれること、教えられることは野球くらいでしたから。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158950/2
この件に関しては、母・加代子さんも後悔されているようで…
龍太は、若いときの子供でしたからね。若ければお給料も少ないですし、生活でいっぱいいっぱいだったのです。30歳を過ぎてからの子供であればまた、違ったのかもしれませんけどね……
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/158916/3
兄・龍太さんの野球に関しては、徹さん・加代子さん共に同じ後悔を抱いていたからこそ、大谷翔平選手に対しては、「本人がやりたいことを精一杯やらせてやろう。」
夫婦そろって「同じ愛情」が生まれていたのかもしれませんね。
そして、大谷選手本人にも、ご両親の思いは十分に届いていたみたいです。
今の大谷選手があるのは「ご両親の深い愛情」があってこそだねっ!
父から野球を強要したことは一度もない。野球のきっかけは「長男」の存在。
大谷翔平選手が、野球を始めたのは「お父さん」がきっかけだったのかな?
もしてかして、最初は野球が好きじゃなかった可能性もあるよね…?
大谷翔平選手に対してやれることは、「自身が打ち込んできた野球しかない」と父親・徹さんは強く抱いていたことは、ご本人の言葉からも事実でしょう。
でも、父・徹さんが、「幼い大谷選手に野球を強要する」ようなことは一切ありませんでした。
むしろ、日常生活においても、徹さんから「野球」に関する話題に触れることは無かったそうです。
大谷選手に野球をやって欲しい想いは、あったんだろうけど、徹さん自身の思いを息子に強要することは、したくなかったんじゃないかな。
大谷選手が、野球に興味を持ったきっかけに関して、母・加代子さんは、
お兄ちゃんが中学校で野球部でしたから。スポーツ少年団でやっていたときも、大会があれば翔平とお姉ちゃんも連れて見にいきました。なので翔平はずっと近くで、兄が野球をする姿を見ていたと思います。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/159030/2
元々、バドミントン・水泳というように、幼稚園の頃から、身体を動かすことが大好きだった大谷翔平選手。
お兄ちゃんがやっていることは、弟からすると「自分もやってみたい!」と思うのは、自然な思いですよね。
大谷選手の所属チームに父も指導者として参加。野球の基礎を叩き込んだ。
大谷翔平選手が、本格的に野球を始めたのは小学校2年生の時。
地元の野球チーム「水沢リトル」に入団します。
その際に、父親の徹さんも、水沢リトルの関係者に対して、
自分も野球指導者の勉強をさせてください。
徹さん、自ら頼み込んで、水沢リトルの指導者に就任し、大谷選手の成長を傍で見守ります。
小学生時代の大谷選手に、徹さんは「野球の基礎」を叩き込んだそうです。
- 「投げる」ことに関して
- きれいなフォームで投げること
- 指先にボールがかかった縦回転のいいボールを投げること
- 「打つ」ことに関して
- インコースはライト方向、アウトコースはレフト方向に打つこと
- 体を開かずに打つこと
徹さんは、中学までは「4番・エース」の二刀流でしたが、高校以降はバッターとして活躍されてきました。
大谷選手に対しても、「バッティング」についてはかなり細かく指導されたんだとか。
特に体を残して打つことに関しては、厳しく言っていましたね。野手は打球を遠くに飛ばさなきゃいけない。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/159078/3
徹さんの丁寧な指導もあり、「ライト・レフト方向への打ち分け」「体を残して開かずに打つこと」に関して、大谷翔平選手は小学校時代にマスターされていたようです。
仕事がどれだけ忙しくても野球指導は疎かにしない。寝ずに練習に向かう時も。
徹さんが、野球コーチに就任した際も、本業の勤務形態は「昼夜2交代制」でした。
大谷選手が所属された「水沢リトル」の練習日程は、土日祝日の9時~17時が基本。
金曜日が夜勤の際には、朝まで働いて、寝ずにそのまま、大谷選手とリトルチームの練習に夕方まで参加していたらしいよ…。僕には無理だな…。
大谷選手が中学生になり、「一関シニア」に入団した際にも、徹さんも同チームのコーチに就任されています。
徹さんは、大谷選手が花巻東高校に入学するまでの、小・中学校の計7年強の間ずっと、大谷選手の成長を、傍で指導しながら見守ったのです。
しかも、中学のシニアチームの練習は、休日に加えて、水・木曜曜19時~21時のへ実練習にも参加されていたそうよ。
本業の工場勤務だけでも、ベーリーハードなのに…。
愛する我が子の為とは言えど、ここまで出来る親は中々いませんよね。
しかもさらに凄いのは、徹さんは、同じチームメイトの親子さんに対しても、配慮を欠かしませんでした。
練習中はあまり自分の子供を教えているところを見られたくなかったのです。ほかのお子さんや、その親御さんたちの目もありますから。ですから練習が始まる1時間くらい前にグラウンドへ行って教えていました
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/159217/2
素晴らしい。。。
周囲への気遣いも完璧ですね。(笑)
徹は水沢リトルでコーチ、監督、一関シニアではコーチをやっていた。チームの指導者である以上、正規の練習時間内に大谷だけを教えれば、特別扱いしていると言われかねない。それで土日祝日は、練習が始まる1時間前の朝8時にグラウンドへ行って教えたというのだ。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/159217/2
大谷翔平と父親・徹が交わした交換日記「野球ノート」と3つの教え
リトル・シニアチームに所属していた、小・中学生時代には、父親である徹さんとは、「監督・コーチ」という関係性だった大谷翔平選手。
2人は「野球ノート」という名の”交換日記”を交わしていたそうなんだ!
こちら、その実際の「野球ノート」の一部抜粋になります。
野球ノートの主な記載内容としては、
- 「良かったこと」
- 「悪かったこと」
- 「目標(これから練習すること)」
毎日書いていたわけではなく、公式試合・合宿などの節目で、大谷選手が上記3点の内容を記載し、徹さんが、それに対してアドバイスを書くといった具合。
書くことによって頭に入る。褒めるのも、本人を目の前にして褒めたくない。文章的に褒めるのが、良いんじゃないかと思った。
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/
2016/09/29/kiji/K20160929013442810.html
大谷選手と「野球ノート」記載していく中で、徹さんが一貫して書き続けたことがあります。
それが「三つの教え」。
- 一生懸命に元気声を出す
- 一生懸命にキャッチボールをする
- 一生懸命に走る
基本的な事だからこそ、野球を続けていく限りは、いつまでも「三つの教え」を忘れずにプレーして欲しい。。
父・徹さんにはそのような思いがあったのでしょうね。
この交換ノートには、徹さんの「野球観」が詰まってるんだね!
そして、徹さんの思いはしっかりと、プロになった大谷選手にも伝わっているようです。
父から教わった「3つの教え」は基本的な事ですが、今でも覚えています。
これから上のステージに行っても、言われ続けることだと思います。
特に全力疾走に関しては、そのこと自体に意味がありますし、そのように取り組む姿勢に意味があると思います。
大谷翔平の父親・徹 まとめ
- 野球選手。
- 中学時代:「ピッチャー・4番」で二刀流のエース。
- 高校時代:外野手転向でレギュラー掴む。甲子園には届かず。
- 三菱重工横浜:24歳までプレー。突然の戦力外通告で引退。
- 職業:三菱重工横浜とトヨタ自動車東日本に勤務
- 三菱重工横浜の関連企業
- 野球部在籍時は総務部に配属
- 野球部引退後は、システム関係の仕事で4年間勤務
- トヨタ自動車東日本(旧:関東自動車工業㈱)
- 工場勤務。車体を造る過程のラインに配属
- 往復3時間の通勤 + 昼夜完全2交代制・残業
- 岩手に自社工場が竣工し、故郷岩手に家族で引っ越す
- 三菱重工横浜の関連企業
- 野球指導者
- 大谷選手の小・中学生時代の監督・コーチを自ら務めた。
- 仕事が多忙でも、野球指導も怠ることは無かった。
- 野球ノートで「三つの教え」を大谷選手に伝え続けた。
現在の大谷選手の、股関節痛と今日、日本時間2022年5月27日の登板日の腰の痛みの原因は、コロナワクチン接種による副反応です。早くイベルメクチン治療とビタミン投与点滴治療を受けて下さい。